今週は1週間の休暇でした。
とは言え、アルツハイマー病で仕事が出来なくなった父の設計事務所の閉鎖と荷物の整理に明け暮れた1週間でした。
金華山の絵と金華山(岐阜城)
(妻にも手伝ってもらいました。このところ 週末も休むこと儘ならない私の仕事を、妻に手伝ってもらうことも多く、二人でゆっくりと過ごす時間もないため、こんな形で休暇を過ごしたとなると、見返りはさぞや高く付くことでしょう。。)
3階建てのビルのうち 1階はテナントに貸し、2階は住居、3階はゲストルームと応接に変えます。そして、250件に及ぶ父の描いた図面 模型 と 海外を放浪して集めた ランプや絵 その他の収集品を 元気な頃の父の仕事場の雰囲気を伝える場所として展示し 残すことにしました。
荷物を整理していると、その昔 事務所としては贅沢なこの場所で、パーティーや勉強会を開催していた頃の什器が一山出てきました。
営業に疲れた父は、「もう少し効率よく集客出来ないものか?」と考え、映画上映会や音楽会で人を集めようとしたようです。しかしながら、そのような文化的な集まりというものは、「羽振りの良い、ちょっとおかしな男が、面白いことやってる」位にしか捉えられなかったようで、受注にはまるで寄与しなかったようです。
夢の跡というか、フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を思い起こしました。
昨日は、病院へ父を見舞いました。今は言葉もあまり通じず、痩せ細って、病院の廊下を際限もなく俳諧していました。
小柄で奇相の人ながら、お洒落だった父がおむつを当てて、ランニングを着て、ひたすら徘徊する様子は、一時代の終わりを感じさせたものの、悲しくはありませんでした。
私は、実力者だった父の恩恵に被ったことは余りなかったし、自我が病魔に完全に侵されてしまうまでの、常識人と認知症の間を彷徨っていた頃の父と それを耐え忍んだ母を支えて暮らした 5年間のことを思えば、父自身の内心の葛藤もなくなった今は平安とも思えます。
また、父は、無一文で岐阜を訪れながら、一時期は岐阜の長者番付に載ったこともあり、30歳で南米を3か月も放浪するなど、やりたかったことは ほぼ やり遂げて、少し早目に老境に辿り着いてしまっただけのことで、大変幸福な人生を過ごした人かと思いますので、今は病院の廊下を巡りながら南米の夢でも見ているのではないかと思います。
潔さということにおいては、これほど格好良い人生も無かったと思えますから、出来ればこんな最晩年を自分も迎えたいものだなと 思います。
と、同時に 支配的な性格だった父の存在が無くなったことが、自分を解放したと思うときと、人に対して厳しすぎると自覚するときなど、父の性格を受け継いでしまったと感じることがあります。
父の周囲に集まっていた本当に多くの人達が、今となっては(父の希望もあり)一人も残っていないのを見ると、限られた自分の人生を、会わなければならない人を減らし、本当に自分が会いたい人とだけ会って過ごそう、本当に話したいことを話して過ごそう と思うようになりました。