沖縄の設計事務所/建設会社です
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JURY@岐阜女子短期大学
 今日は、柳田良造教授の誘いで岐阜女子短期大学で、卒業設計のJURYをした。

事務所で計画案を批評する時は、それが優れたデザインかどうかを評価する。
卒業設計だと、そうは考えない。
彼女が何を構想したかを、彼女の気になって真剣に考える、自分が彼女のような構想を抱いたら、どう表現したいかを考えて、20人くらいか?になり切って、改良点を考えた。

これは、疲れるが楽しい作業でもあった。

自分の作品は、決断に大きな責任が伴うし、重たい荷物をいくつも引きずりながら、決めていく。
人の作品ではそういう重さを感じないので、考えうる限り最良の案を楽しく考える。

中に一人、どうしても彼女の身になって考えることが出来ない・・・というかその必要の無い女の子が居た。計画自体は、岐阜の駅前にシネコンを作るというものだが、意匠・構造(設備は無い)が、あるコンセプトに従って、過不足無く展開されていて、手を入れる余地が無かった。
他の作品については、誰々の何々という作品を参考にすると良いという助言ができたが、この作品には、出来なかった。今まで見たことのあるどんな建築にもあまり似ていなかったからだ。

後で研究室で柳田先生と話していると、「彼女は建築家として独り立ちできるかもしれないね」という結論になった。

そして、自分は、他の誰も作らないような建築を作れているだろうか?と自問した。
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吉島家 と バラガン自邸
 


年明け早々住宅を2軒見学した。
ひとつは高山の重文 吉島家住宅
もうひとつはルイス・バラガンのバラガン自邸だ。

二つとも非常に豊かで、見識と美意識に優れた、遊び心の旺盛な男たちが、自分のために建てた家、というところが共通している。

外観はごくごく控えめであること、高い吹き抜け空間が建築全体を支配していること、次から次へと空間が新たな物語で刺激を与える、いわゆる「シークエンス」型の建築であること、オーソドックスな形式を使い、変わったディテールが無いにも関わらず、最終的に出来たものが、何かとらえどころのない大きな物語を語っていて、結果としてそれを良いとか悪いとか批評することを無意味にするだけの完成度を持っているところも 似ている。

似ていないのは、僕の見学の仕方で、吉島家は1月2日の極寒のなか、手足がしびれるのも構わず1時間も邸内をうろうろしていたのに対し、バラガン自邸は、大きな作品集に見入りながら、図面と写真を交互に対応させながらヴァーチャルな散歩を楽しんだ という違いがある。

吉島家は、その民家っぽい外観にもかかわらず、あっけないほど洗練された住宅だった。これは、吉島さんが、火災で焼失した自邸を再建した、2軒目の住宅 だったことが理由だろうと思う。
「やりたいこと」と「できたもの」の差があまりない。いわば原寸大の模型を作ってから、実施設計をしたようなものか。

さて、僕は、住宅に建築を見出しつつある危険な水域に立っている。

それは、プランから少し離れて、その10分の1くらいの縮尺で建築を考え始めたということだ。
大きい縮尺と小さな縮尺、見えるものと見えないもの、を行き来できるジャンプ力が建築家の力量だと思うが、果たしてまたもとのスケールに戻れるかしら・・・

まあ、行けるところまで行ってしまおうじゃないの、などと思っている。


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